真人の奥義
「遍殺即霊体(へんせつそくれいたい)」
この技の「硬さ」というものは、
ただの「結果」で、「本当の強さ」は
『宿儺が真人を見逃した理由』
これと一致するのではないでしょうか。
呪術廻戦の世界において「最強」なのは赤ちゃんのような無駄なしがらみのない「自由さ」をもった奴なのです。
ネタバレ範囲は1~15巻です。特に渋谷事変編の重大なネタバレを含みます。ご注意ください。
Creeepy Nutsの『かつて天才だった俺たちへ』を聞くと、より言いたいことが分かりやすいと思います。
【目次】
【最強たちの共通点】
呪術で「最強」と描かれているのは3者。
千年前の呪術全盛の時代
術師が総力で勝てなかった宿儺
現代に産まれ百戦錬磨
「世界の均衡」を変えた五条悟
自然呪霊の頭(リーダー)
現代最強の呪霊と言える真人
彼ら「最強」には共通点がある。
「自由」なのだ。
もちろん物理的な話ではない。
物理的に考えれば宿儺は虎杖に囚われているし、五条は保守派を含む上層部によって理想を実現することができない。
「心」の話だ。
『天上天下唯我独尊』
この場合は「天の上にも天の下にも(この世界の中で)自分はたった1人だけで特別である」そういった意味で使っているのだろう。これこそが「自由」だ。わかりにくいので「彼ら」の言葉を借りて説明する。
『「寄り合い」で自らの価値を計るから皆弱く矮小になっていく』
他者のものさしで自分を計り、限界を勝手に自分で定め、その結果自分のしたいこと(飢え)に蓋をして計画遂行に徹した漏瑚。これはまさに『天上天下唯我独尊』の逆。自分が「たった一人の特別な存在」だと考えるなら、他者の評価で自分の価値を計る必要はない。「自分には価値がない」「自分は特別ではない」のではと考えるからこそ、他者の評価が気になる。
漏瑚の場合は「人間」という地球を我が物顔で歩く存在に成りたかった。しかし「我が物顔」で歩くだけなら誰だってできる。そうではなくて世界に「認めて」欲しかった。漏瑚は地球を我が物顔で歩く人間のように「強い」存在であると。特別であると。故に真の強者である宿儺の「評価」で彼は涙を流した。
彼が求めた「本物の強さ」「真実」は彼が執着した「評価」の前にあるもので、「評価」はただの結果に過ぎなかったことを彼は見失ってしまっていた。本当に「真実」を求めるなら、「評価」を求めるのなら、漏瑚は「評価」から自由になるべきだった。「飢える」べきだったのだ。
『花御ってさ 本当はもっと強いんじゃない?』
花御は「本物の強さ」を人間に求めた漏瑚とは違う。彼は人間を消し地球を守ろうとした。それが彼の「譲れない物」。そのために戦う。しかしこれは彼の嫌悪する人間と似ている。人間はホモサピエンスの時代から譲れない物のために多種属、時には同じ種で戦ってきた。そして今、人間の牙は自然に及んできている。花御が戦闘を過程としてしか認識できなかったのはこのせいだろう。
自分が大切にする「地球」を傷つける「人間」が嫌い。だから嫌いな「人間」が行っている「戦闘」もなんとなく好ましくない。しかし戦闘しなければ、勝たなければ理想は実現できない。だから過程だと割り切って戦う。
だが「地球を守る」ことと「戦う」ことは矛盾しない。つまり花御が戦いを避ける理由は「嫌いなあいつが好きなものはなんとなく嫌」という何の意味もない制限。不自由さだけだ。
だから彼は戦いを楽しみ始めた後の方が強そうでイキイキしているのだろう。戦いを「なんとなく」避けることをやめて、少しだけ「自由」に成れたから。
しかし変には思わないだろうか。
「呪術」には「縛り」という「不自由さ」を力に変える方法がある。現に天与呪縛のフィジカルギフテッドは術式を失う「不自由さ」の代わりに圧倒的な身体能力を得る。術式だって情報を開示する「不自由さ」を強さに変えることができる。じゃあどうして彼らは自由なんだろうか。
「縛り」という
「不自由さ」によって
強く成れるのなら、
自由人は弱くあるはずではないか
【かつて天才だった俺たちへ】
ここまで読めば呪術廻戦において「自由さ」が強さであることは理解していただけたと思う。しかし「何にも縛られないやつが最強」と芥見先生が言いたかったとは思えない。
そうであれば最強と何度も念を押されている五条は、わざわざ弱者を助けない。「呪術」という作中における「力」に「縛りによる強化」なんて設定をつけるはずがない。虎杖に「遺言」という不自由さを幾つも重ねるはずがない。
だとすれば「縛り」と花御が自分に課したような「意味のない制限」は違うはずだ。一見複雑なように思うかもしれないが話は単純で、「縛り」には意味があって「意味のない制限」には意味がない。
誰でもわかるよう、勉強にたとえてみよう。
「縛り」とは「10時間勉強する」こと。
「意味のない制限」とは
「勉強時間は設定せずゲームを1日1時間にする」こと。
前者の不自由さは学力に変わる。しかし後者はどうだろうか。ゲームの時間を減らされたので勉強しようとなる人間はそんなことしなくても勉強をする。多少寝不足が改善されても基本的に学力は変化しない。
「縛り」という「意味がある制限」は人間という種の特徴だ。動物が自らの意志で自分に1日10時間○○をするという制限をかけることはおそらく不可能だろう。この「不自由さ」は人間を人間たらしめている。
「意味がない制限」は「呪い」や「しがらみ」と言い換えられる。本質を見失い、形骸化し、「意味」やそこに込められていたはずの「意思」すら消えた「しがらみ」もまた人間特有だろう。「呪い」を行うことができる動物が居ないように。
「ゲームは1日1時間」だってそうだ。おそらく嫌がらせとしてこれを言っている人間は限りなく少ない。ゲームをやめて勉強や運動をして欲しいから言っているはずだ。しかし何かをさせるためという本質を見失ってしまっている。
問題は「本質」。
もう一度思い出して欲しい
『天上天下唯我独尊』とは何か
「自由」とは何か
それは宿儺のように他者の評価ではなく「自分のものさしを大切にして動く」こと。真人が言うように「自分に意味のない制限をかけない」こと。前述したことと矛盾したように聞こえるかもしれないが、「不自由だから弱い」のではない。確固とした「意志」も「意味」もなく、他者という「環境」によって、ただなんとなく「勝手に不自由になっている」から弱いのだ。
「しがらみ」は
「縛り」に
成り損なっている
【遍殺即霊体の真の強さ】
彼は黒閃を経て剝き出しの魂を理解し
「遍殺即霊体」に目覚めた。
その姿は一番硬い原型より200%も硬い。
真人は自分に正直だった。
かといって彼は無鉄砲な馬鹿だったわけでもない。「呪いの時代を作る」という「信条」、「意味がある制限」を反故にするつもりはない。故に五条封印に手を貸した。しかし彼は虎杖悠仁を殺したい。その魂の声も無視するつもりはない。だから五分で勝てるならと虎杖殺害に向かった。
彼はあくまでそれが望みだから呪霊に手を貸し、それが望みだから虎杖を狙う。
彼は自分に「しがらみ」なんてものを作るつもりはさらさらない。自由で自分本位。だから宿儺は渋谷で短い時間だったとはいえ生得領域に侵入されてもどこか楽しそうな顔で居たのだろう。「不快」ではなかったのだろう。
真人が漏瑚とは違い、
自分のように「自由」だったから。
誰でも多少は「しがらみ」を持つ。
それは無くせないのだろうか。
否、そんなことはない。
誰だって人生で2度はそれを無くす。
「生」と「死」だ。
産まれてすぐの赤子に「しがらみ」なんてものは存在しない。死んだ後にも存在しない。
だから真人は「死」という「しがらみ」のないありのままの姿を映す「鏡」であり
真人は最後の「しがらみ」である「虎杖との因縁」を断ち切ることで真に「生まれ堕ちる」のだろう。
「剥き出しの魂」とは「しがらみ」を極限に減らした、まるで赤子のような状態の魂のことだったのだろう。五条や宿儺のように「しがらみ」から自由になったから彼は強くなったのだ。「遍殺即霊体」によって強くなったのではなく、強くなったから「偏殺即霊体」が使えるようになった。
強さは「結果」に過ぎない。
「遍殺即霊体」の
『本当の強さ』は
「硬さ」ではなく
「自由」になったこと。
宿儺が何故真人を逃がしたのか。
なぜ彼ら「最強」は強いのか。
なぜ遍殺即霊体を使えたのか。
全てはそこに在る。
【余談】
宿儺や五条は『天上天下唯我独尊』、自分は特別であると言っていて、故に2人は自由だったが、真人は真逆の発想からそこに行きついているのが非常に面白い。
真人は「般若心経」のように「存在」ということの無意味さ、無価値さを説いた。そして、だからこそ自由でいて良いと言った。
「自分を特別と考えてしがらみを捨て自由になった2人」と「自分は無意味であると考えてしがらみを捨て自由になった真人」。真逆の思想なのに行きついた先や本質は同じ。面白くないですか?
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