amedotのブログ

呪術廻戦の考察を主に書きます

【呪術廻戦】曇りなき心の月を先立てて浮世の闇を照らしてぞ行く

(注)単行本になっていない範囲(現時点は17巻発刊済み)の重大なネタバレを含みますので、166話以前、特に159話~166話を読んでから本記事を読むことを強くお勧めします。

かなり個人的な解釈、考察を含みます。

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正しく生きれば報われるのでしょうか?

じゃあ正しさのためになら死ぬことも

良いことなのでしょうか?

正しさとはどこにあるのでしょうか?

ね?

 

虎杖 悠仁

 

 

【目次】

 

【日車寛見という男】

今週(166話)に触れる前にいくつか整理しなくてはいけません。

「日車はなぜ弱者を助けていたのか」

「日車はなぜ102点を取るに至ったのか」

 

なのでまずはそれ以前の話からになります。

 

 

【日車は何故大江を弁護したか】

日車は何故大江を弁護したのでしょうか。大江は無罪であると信じていたからでしょうか。大江が可哀想だったからでしょうか。正義を追い求めていたからでしょうか。

おそらく全て少し違います。

 

確かに大江は有罪ありきの裁判によって有罪になったし、犯行推定時刻にコンビニにいたらしい。しかし彼は住み込みで働いているNPO法人給料をまともに支払われてはおらず、弁当や食材の現物支給、お年玉を貰う程度。さらに月5万の家賃の請求。NPO法人の活動以外にバイトをしていたとしてもその困窮した生活にありながら自炊をせずコンビニで何の食材を買うのかは疑問である。犯行推定時刻だってずらす方法が無いというわけでもない。盗品が大江の部屋に無かったのも偽装工作じゃないとも言い切れない

大江はたまにのご褒美として自分にコンビニで何かを買っていた、ただの善良な市民で、本当の犯人は行方が分からなくなった人間だったのかもしれないし、犯行推定時刻をずらし、コンビニでアリバイを作っていた犯人なのかもしれない。あるいは他の可能性かもしれない。

少なくとも今、我々読者が知ることのできる情報では大江を犯人であると確定付けられないのと同じように、今出てきている情報では大江を犯人ではないと確定させることも出来ない

 

しかし日車は大江を弁護する。

なぜか。

推定無罪という言葉があるように、法治国家では「証拠」「法律」に基づいてのみ人間は罰せられるべきであり、どうせ犯人だという「民意」「有罪ありきの裁判」という「おかしい」ことを放っておくことができないからだろう。

 

「大江」という特定の個人を救いたかったわけではなく、無罪を確信していたわけでもなく「おかしいことに押しつぶされた人間」を救いたかっただけなのだ。

それが「日車寛見」という男であり

「弁護士」という職業のルール。

じゃあ日車は「自分が助けた人間が人を殺したら(殺していたら)どう思うのだろう。

 

恵のように取捨選択するんだろうか

 

悠仁のように何も考えず救うんだろうか

 

【22人殺した理由】

日車は術式開花からたった12日で102点取得しています。つまり最低でも「術者20人」と「非術者2人」を殺しているはずです。

 

おそらく日車がそうなってしまったのは有罪ありきの裁判が行われたあの日でしょう。日車は有罪ありきの裁判という「おかしいこと」とそれを変えることのできる「力」を目の前に並べられてしまった。

 

彼はこう思ったことでしょう。

「なぜ有罪ありきの裁判なんかによって、自分の正しさを信じて生きようとしていた自分が、どうして助けようとしていた相手に責められているのだろう。自分は間違っていたんだろうか。ルールからこぼれた彼を見捨てていればよかったんだろうか?

そして違うと思った。信じた。

だから彼はその力を振るった。

「裁判」を再開した。

 

そのあと何が起こったのか。今はまだ推察することしかできません。

日車の術式では実際の裁判の結果を変えることは出来ない。仮にあの「裁判」によって裁判官や検察官が不正を働いたと自白したとして、大江が無罪になれたとして、そもそも大江が犯人ではないと言い切れない犯罪者が野に放たれる手伝いをしただけだったのかもしれない。

 

しかし確実に言えるのは日車は「おかしいこと」を正すことのできるかもしれない力が自分にはあることを、あのとき自覚したはずです。

 

じゃあ「おかしいこと」はどうすれば無くなるのでしょうか。

作中日車もほのめかしていた通り、「完璧」であり「絶対順守のルール」を作れれば良い。

きっとそのためにいくらか人は死ぬでしょう。いくら死滅回游が自分の意志で宣誓しなければ参加できない(入る際にコガネによって確認が入り、元から入っていた人間は一度出れるため、確実に一度宣誓する必要がある。ただし羂索に関与された人間を除く)とはいえ、不本意に入らざるを得ない人、そして不本意に死ぬ人は出るでしょう。多少の「おかしいこと」は生まれるでしょう。

しかし犯罪しても捕まらない人間や、犯罪していないのに捕まる人間のような大量に起こっている「おかしいこと」は解決することでしょう。

だからあの日

日車は目を塞いだ。

自分の罪から目を背けた。

そして彼は102点を取ったのでしょう

少しのおかしいことに蓋をして。

 

【日車は虎杖に似ていた】

さて、ここからは166話について触れていこうと思います。

日車はあの裁判までは「おかしいこと」を解決させようとしていました。人間も正義の女神も眼をそむける中、日車だけは眼を開けようとしていました。しかしその過程で彼は人間の醜さを見てしまった。そしておそらくあの裁判によって目を背けてしまった。

彼は心のどこかで信じていたのでしょう。

自分のルールを信じ、そこに背かず正しく生きればいつかどこかで報われる「正しさ」が無意味なはずがないのだと。

だから自分を犠牲にできた。

 

しかしそうは限らない。

「正しく生きるより賢く生きろ」なんて言葉があるように、虎杖が「正しい死」を追い求めて身を粉にしていても、身に余る罪が不条理に積み重なっていくように、正しく生きたとしても報われるなんて保証はない

正しく生きることは傷つくことに等しい。

騙され、出し抜かれ、傷つき、損をする

だがそんな闇を進んでもその先には何もない

そこを超えても何にも成れないし、その先に世界を変える宝箱が落ちているわけでもない。あるのは”この先には何かあるかもしれない”と夢を見せてくれる眩しい虚無だけだ。

 

でもだからこそ、そこに意味が生まれる

人は皆、弱く醜い

他の生物とは違い、嘘をつく。

弱い自分を守るために。

 

だから人間はルールを作った。

法律を作った。

「わたしはアナタを殺しません

だからアナタも私をころさないで」

そう願いながら皆で一斉に自分を縛った

 

弱いから、醜いから

人間は優しさのようなものを持てた。

尊いものを獲得した。

他人に優しくなれた。

 

だが日車はあの日それを否定した。

人間は弱く醜い。

いかにルールを作ろうと抜け道を作り悪用する人間は存在する。そして優しい人間は殺される。だったら完璧なルールがあれば良い。リンゴが木から落ちるように、因果のように悪人が裁かれれば優しい人間は救われる。優しさに、正しさに意味は無いのだから完璧なルールで守らなければいけない。

だから過程で生まれる多少の「おかしいこと」には目を閉じた。

 

虎杖はどうだろうか。

人を救うために指を食べたら死刑判決を受け、友人を失い、はてには渋谷を更地にした罪を背負い、いくらでも言い訳できる中、それでも彼は自らの罪に向き合った「正しい」死を追い求めた。

 

醜い人間社会において、嘘をつかず、正しさを信じて暗闇に向き合った虎杖のその行為は「弱さ」だと言えるのだろう。

 

その「弱さ」

日車が目を背けたものだ

 

かつて己の中にあり

守ろうとしたものだ

 

だから日車は虎杖を殺せなかった

どんなに辛くても正しく、高潔であろうとする曇りなき眼を切ることは出来なかった

 

日車は虎杖と似て”いた”のだ

 

 

 

 

【余談(感想)】

伊達政宗

仙台藩の初代藩主の戦国武将で「独眼流」として有名な伊達政宗さんが辞世(最後)の句として読んだことで有名なものが、この記事のタイトルにもなっている「曇りなき心の月を先立てて浮世の闇を照らしてぞ行く」

「何もない真っ暗闇の中、月の明かりを頼りに歩くように、先の見えない戦国の世を自分が信じる通り歩いてきた人生だったな」的な意味らしい。

虎杖や日車が先の見えない暗闇の中でも自分のルールを信じて傷つきながら歩いていこうとしているのにリンクするなと思ってタイトルにしました(+ネタバレ強すぎるので検索避けも兼ねてる)

日車はその先に何もないと言っていたし、大江が悪か正義か分からないように、正義なんてどこにあるかは分からないけど、虎杖には救われて欲しいなと思う。

 

≪ジャッジマン≫

日車の式神であるジャッジマン、多分法の女神が持っている天秤と刃が元になっていると思うんですけど、ジャッジマンは天秤でしかなくてなんでだろう?と思っていたら日車が刃を握ってそこで回収か~~~~!!ってテンションが上がった。

ちなみに法の女神が刃と天秤を持っているのは、「剣なき秤は無力、秤なき剣は暴力」に過ぎず、法とそれを執行する力は揃ってこそ意味があるということを表しているからだそうです。

 

≪結局大江は犯人なのか≫

前述した通り、今の所は大江が黒か白かは分からないわけで、結局大江は人を殺したのかどうかというのが疑問として残る。

日車が166話で殺した2人はスーツを着ていたから、多分検察官と裁判官なはず(検察官だけ汚職しても有罪にはできないだろうし、裁判官だけ汚職する意味が分からない)

でもかといって大江が無罪になりましたチャンチャン。ならここまでこじらせてない気がするので、結局大江関係で何か起こっていそうな気がする。

そう考えると、裁判官と検察官を領域にいれて裁判していたら外で自棄になった大江が日車のパートナー弁護士を殺していた(自分が救った人間が将来人を殺したらどうするの回収)。とか面白そうだなと思う。

「結局大江が犯人かどうかは分からんけど、日車が救おうとした人間は人を殺しましたよ」

とか

「大江を救ったけど犯人だし、これからも犯罪を犯すよ」

だと凄く面白そう。

 

大江も術師だったとかも面白いかも。コンビニの映像は式神を映していただけとか。その場合なんで式神に殺させんかったん?となるが

 

≪なぜ10”2”点になったのか≫

日車の得点は102点です。

そして死滅回游総則の第4項によると「泳者は他泳者の生命を絶つことで点を得る」らしく、5項によると「点とは管理者によって泳者の生命に懸けられた価値を指し、原則術師5点、非術師1点とする」と書いてあります。

つまり日車が獲得した「102点」「5点である術師20人と1点である非術師2人、計22人を殺した」あるいは「原則〇点とあるので例外的に6点や2点のような人が居て、それを殺したので端数が出た」結果なはずです。

 

ならば3つ考えなければいけないことがあります。

1つ目。泳者は他泳者を殺さないと点を得れないということは、日車が殺したかもしれない2人の非術師は「泳者」であるはずということ。「非泳者」を殺しても点数は得られないはずだから

つまり、非術師を手ごまにして得点を稼ごうとしている泳者がいる可能性がある。そしてそれはおそらく今、日車がいる東京第1コロニーにいると考えられる。そうなってくると虎杖と同郷の甘井とかが怪しくなってくる。

甘井の髪の毛の色?だか帽子だか分からないやつ、「キッパ(キッパー)」と呼ばれる帽子だと仮定すると、ユダヤ教の男性が主に被るもので、それを被って頭上に神がいることを強く意識するらしい。

ユダヤというと金貸しというイメージがあるし、甘井は実は非術師でありながら何かを貸す能力によってその見返りとして隷属を強制されて、死滅回游への参加を強いられているのかもしれない。

そうなるとレシートを強調している不退転の男、レジィが怪しい。

レジィの何らかの能力の対象に甘井はなっており、だから帽子をかぶっている(綺羅羅のラブランデヴーでいう所の星マークのような役割をキッパが担っている)。そしてそんなような人間が東京第1コロニーには複数いて、それを日車は殺したから2点という端数が生まれたとするとしっくりくる。

問題はなんのためにそんなことをしているかだが、例えば「Aが術式でBを操りCを殺した」あるいは「Aが術式で操ったBがCに殺された」とき、実際に相手を殺したBやC以外に、Aにも点数が入るのだとすれば弱者であろうと強制的に死滅回游に連れてくる意味はある(簡単に言うと、カラスも泳者になれるとして、冥冥さんが黒鳥操術によって泳者であるカラスを操り、誰かを殺したとき、得点はカラスに入るのか、冥冥さんに入るのか、両方に入るのかみたいな話)

 

 

2つ目。166話で殺されていた2人が端数の2点なのかどうかということ。

あの2人が端数の2点だとすると、あの2人は死滅回游に参加していることになる。

なぜか。考え易いのは羂索の仕込みである可能性と1つ目でも話したように泳者である呪術師の手ごまとして参加を強制された可能性。

羂索の仕込みならこれを1,000人分やらないといけないわけで、そうした場合羂索の手下の人材が豊富すぎるのでなさそう。後者の可能性はもう書いたので割愛する。

 

 

3つ目。日車が殺したかもしれない原則の点数からずれた人間はなぜ得点が違うのかということ。

管理者が点数をつけているのだから、例外的な点数をつけられた人間は管理者が顔を知っている人間だと考えるのが妥当でしょう。管理者についてはまだ不明ですが、羂索が管理者権限を渡しているのだからおそらく羂索の知り合いか顔見知り。ならば羂索によって強制的に泳者にされた人間たちを管理者が知っていてもおかしくありません

つまり鹿紫雲や虎杖、日車に津美紀のような者達につけられた点数が他泳者より高い可能性は高いと思われます。

強さによって点数が変動する可能性受肉しているから点数アップの可能性も無くはないと思いますが、原則5点ということは特例に高い点数の保持者がいたとしてもその数は少ないはずです。それほどの精鋭が呪術を覚えて12日の日車に負けたとなれば展開的に期待外れとしか言いようが無いです(虎杖もピンチだったが虎杖は領域の中和ができず、罪も認めてしまっていたので少し相性が悪い)

 

 

≪虎杖の眼と大江たちの眼≫

自分は本誌を紙で買っていて、紙のジャンプは印刷が悪く断言できないですが、大江が日車を責めた「眼」は虎杖が日車を殴ろうとした「眼」に比べて若干濁っている(ように見えた)

多分肉眼でも断言できないから、写真に撮ってここに載せても分からないので、載せませんが。自分で見比べてみて欲しい。

虎杖は「曇りなき眼」だったのかもしれない

 

≪日車は何を求めていたか≫

ここまで書いたことが前提になるが、日車さんは「大江」という特定の個人を救いたかったのではないとか、正しさを求めていたと書いたけど、人に”全く”興味が無かったり、正しさの果てに物凄い名誉だったり、力が欲しいと思っていたわけではないと思う。

そうであれば虎杖にみんな死ぬと言われて一瞬考えないし、出世に興味が無いわけが無い。あくまで日車は「おかしい」が嫌で、自分の譲れないものに嘘をつきたくなかったからそのためにどうするかを悩んでいたのかなと思う。

譲れないものを確実に守るために、自分の限界を見定めて、出来る範囲以外を切り捨てて、そこから目を逸らす恵になるのか、全て背負おうとする虎杖になるのか。みたいな。そういう意味では恵は虎杖と出会う前の日車に成り得る危うさがあるのかなと思ってしまう。

虎杖と恵が初期位置逆だったら日車は改心することなかっただろうなと思う。むしろここから血まみれで、でも何もなかったかのように虎杖と日車がいるあそこに恵が入ってくるのかもしれない。しらんけど。

 

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