呪術廻戦とは「諦め」の物語である。
それを最も体現するのは主人公。
『虎杖悠仁』
彼は宿儺の器となり死刑を宣告された後、
こう言った。
「宿儺は全部喰ってやる。
後は知らん
自分の死にざまはもう決まってんだわ」
「呪い」なんて知らなかった、
なんなら少し前まで中学生の男児が、
人を救うための行為の後、
『死ね』と言われ、こう答えたのである。
それを「諦め」と言わず何と呼ぼうか。
※ネタバレ範囲は呪術廻戦0~30巻です。
【目次】
- 【死は鏡】
- 【『俺は不平等に人を助ける』】
- 【ゲラゲラゲラゲラゲラゲラ】
- 【『熱』】
- 【日車寛見という男】
- 【『何者にも成る必要はない』】
- 【『死ぬことはいつだってできる』】
- 【『100人におもろいと思ってもらうなんて』】
- 【『生きていくこと』】
【死は鏡】
善行を成し、「死ね」と言われ、
それでなお善行の後死ぬと答えた虎杖。
彼は「死」に対し想像力を欠いていた。
智識と理解には雲泥の差がある。
人が死ぬことを知る人は殆ど。
しかし、死ぬことを理解する人は少ない。
「そのとき」にならず、理解はできない。
そして少年院編で「そのとき」は訪れた。
圧倒的暴力の前に蹂躙される虎杖悠仁。
『死ぬ』
生まれてはじめて感じたものだっただろう。
『死は鏡』
花御の持論通り、虎杖の本音を引き出した。
『痛い痛い痛い 辛い辛い辛い
なんで俺が!! あの時俺が指を拾わなければ
喰わなければ!! あの時!! あの時!!
やめろ!! 考えるな!! 嫌だ!! もう嫌だ!!
逃げたい!! 逃げたい!!
死にたくない!!』
そんな虎杖を宿儺はこう称している。
『今際の際で脅えに脅え
ゴチャゴチャと御託を並べていた』
私はそうは思わなかった。
腕を捥がれ、潰される激痛。
それが善意の果ての景色。
そんな状況になったとしたら、私であれば
「おかしいだろ。ふざけんな!」と。
自分に「死ね」と宣う、世界を呪う。
しかし虎杖はこの状況で「後悔」した。
何一つ、間違っていなかった生き方を。
沸き上がった当然の想いすら抑え込み、
自ら命を諦めた。
死を「理解」し、尚それを選んだのである。
残した人たちを案じつつ。
【『俺は不平等に人を助ける』】
伏黒恵の義姉、伏黒津美紀。
『誰かを呪う暇があったら
大切な人のことを考えていたい』
そう吐露する彼女は間違いない善人。
まるでヒーローコミックのように、
この世が完璧な理想の上にあるのなら、
彼女は幸せになるべきだった。
しかし呪われ、寝たきりの身となった。
この世は”そう”ではないと理解した。
だから伏黒恵は「諦めた」。
全てを救うこと、英雄になること、
コミック読む子供のような夢を。
自らは世界が完璧になるための歯車。
そうパッケージングすることで、
「全て」を掴む理想を諦めた。
【ゲラゲラゲラゲラゲラゲラ】
2巻、死んだ宿儺は虎杖と、
『「契闊」と唱えたら、
1分間体を明け渡す。
その1分間は誰も傷つけない』
という契約を交わした。
その契約は24巻に回収された。
恵の魂が折れる瞬間、
恵の目的、津美紀のほぼ確実な死。
そこを狙い虎杖から恵へと乗り移った。
実はこの計画の鍵は恵だけではない。
『誰も傷つけない』
その範疇に虎杖自身が居ないこと。
これが最重要事項なのである。
そう考えた時、宿儺の真意が分かる。
順平の死に際。
『矜持も未来も!! お前の全てを捧げて!!
俺に寄り縋ろうと!!
なにも救えないとは!! 惨めだなぁ!!!
この上なく惨めだぞ!! 小僧!!!
ゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラ』
八十八橋解決後。
『オマエのせいだ
オマエが俺を取り込んだ
目覚めたんだよ 切り分けた俺の魂達が
大勢の ケヒッヒヒッ 人を助けるか
小僧!!オマエがいるから!!
人が死ぬんだよ!!』
渋谷を領域によって更地にした後。
『小僧 せいぜい噛み締めろ』
宿儺はへし折ろうとしていた。
「俺なんてどうなっても良い」
そう思わせるよう、立ち回っていた。
『誰も傷つけない』という契闊の縛り。
そこに虎杖自身を含ませないために。
罪を重ね、自己肯定感を削った。
そして宿儺の狙い通り、虎杖悠仁は
『俺は大きな…歯車の一つ』
そう考え、自分を『諦めた』。
だから宿儺の作戦は成功した。
【『熱』】
呪いを祓う「歯車」と化した虎杖。
彼は死滅を戦う仲間を集めるため、
停学中の先輩、乙骨並みの実力者
「秤金次」の元を訪れた。
秤が重んじるは『熱』。
『熱』とは『願い』。なのだと思う。
望み叶って欲しいと願うこと、
その願いによって動かされる世界。
それこそが『熱』。
仮に、虎杖が『熱』のある人間なら、
さながら0巻の乙骨のように
『生きてていいって自信が欲しい』
そう言うべきなのだろう。
生きるだけで人を傷つけても、
罪人であったとしても、
「生きたい」と熱望するのは自由。
罪が後ろめたいなら、
罰は”その”後向き合えばいい。
どんなに分の悪い賭けでも
「願う」ことは許される。
子供ならなおさらだ。
しかしそれを諦めた虎杖に感じた『熱』。
それこそが『尊ぶべき穢れ』である。
【日車寛見という男】
「推定無罪の原則」
有罪が確定するまでは無罪という、
もちろん弁護士を含む司法の基本理念。
証拠、手順、法。
これらによってのみ罰は下され、
疑わしきは罰されない。
現実的で、理想的なシステム。
だが日車の世界ではそうはならなかった。
大江圭太。
日車が弁護した彼は殺人事件の容疑者。
超怪しいとはいえ、「容疑者」。
推定無罪だし、日車は証拠も出した。
なのに反証もなしに一転、有罪。
日車に向けられるは大江の眼。
だから日車寛見は現実を諦めた。
目の前の苦痛は、ゲームのステージの様に
クリアして、報酬を貰い、エンドロール。
そうではなく、人生は永遠に続く、
報酬もゴールも見えないマラソン。
だから法を諦め、理想に浸かった。
リンゴが木から落ちるみたく、当然に
罪人に罰が降りかかる理想を願った。
そのための犠牲や現実に目を瞑り。
だから虎杖の眼は太陽が如く映る。
正しさのために動き、身を粉にし、
それでなお不条理に罪が重なっても、
魂は、眼は、折れず一点を見つめ続けた。
虎杖は生命活動という根本を諦めても
ただ一点を。
命の正しさ。というより、自分を。
その馬鹿正直な、弱さ。
それこそが秤の感じた『熱』であり、
日車が眼を背けたくなるような『眩さ』
【『何者にも成る必要はない』】
幼少期、視ていたヒーローはなんだろうか。
アンパンマン、仮面ライダー、プリキュア。
イチロー、スティーブジョブズ、鳥山明。
何だっていい。
誰しもそれを見て、一度は想うはずだ。
『こんなふうになりたい。
何かを成し遂げたい。
何者かに成りたい。』 と。
しかし、そんな風に成れるのはごく一部。
殆どが、所謂『何か』にはならず、
普通の人間として普通に死んでいく。
”それ”が悪いという話ではない。
ただ、烏鷺を含め、殆どの泳者は、
現世で折り合いがつかず、諦めきれなかった。
自分ならもっとできるはずだったと。
その『諦め』の清算場こそが死滅回游。
最も簡単な方法は、家族や友人によって、
『寄り合いで自らの価値を計る』
ことだと言うのに、現世を切り捨てて。
【『死ぬことはいつだってできる』】
世界はそうそう変わらない。
そりゃあ、少しは変化する。
イレギュラーもあるし、その予測もする。
でもどこか、明日が来ると信じている。
明日は今日と変わらないのだと。
分かりやすいのが身近な人間の「死」。
人がいつか死ぬことは知っている。
でも、明日は会えると思っている。
その夢に浸ったまま、明日が来なくなる。
これは諦めですらない。
今を見ず、一歩を踏み出さず、
その歩幅を知らぬまま死んでいく。
『そんな人間を私は嫌悪するよ
貴様に言っているんだぞ 』
【『100人におもろいと思ってもらうなんて』】
日本人は約1億2千万人。
当然だが、その中には色んな人がいる。
赤子、子供、青年、中年、老人。
眼が見えない人、腹をすかしている人。
家庭環境が違えば性別も感性も違う。
故に全ての人間を笑わせることは不可能。
それは正しい。
「笑い」を何に置き換えても同じだ。
そう、例えば「救う」。
『全ての人間を救うことは叶わない』
これも正しい。しかし、
まるで恵や日車のように、
『切り捨てる前提で動き、他の誰かを救う』
これは違うはずだ。
100%を目指すから、80%や100%、
時にはそれを超える120%の未来を掴む。
傷つきたくなくて、自分を守るために、
はなから80%でいいやと諦める人間に、
黒き運命は輝かない。
バントでホームランを打てはしない。
(化け物は除く)
【『生きていくこと』】
『命の価値』とはなんだろうか。
「価値のある命」とはなんだろうか。
『何かに成れば』価値はあるのだろう。
『生きてていい』と誰かに言われれば、
『正しい』ならば、『面白い』ならば、
そこに価値はあるのだろう。
だからみんな、それを目指して生きて、
成就に関わらず、死んでいく。
その輪廻、群れからはぐれた者たちが、
死滅の海を泳いだ。
そのうちの一人、虎杖悠仁は、
怨敵、宿儺との最終決戦前に言った。
『役割なんてなんだっていいし
そんなものなくても
食ってクソして寝るだけでも
病気で寝たきりでも
自分の人生が誰とも繋がらなくて
何も残らなかったとしても
人の命は価値があるんだよ』
虎杖悠仁が導き出した結論がこれだ。
この言葉だけを切り取ると、
「何かに成る必要はない。
何かを成す必要はない。
そんなもの無くとも全ての生命は尊い」
という、使い古された『建前』。
何者にも成れなかった人達への
心地良い諦めのための言葉。
そう聞こえてくる。
しかしそうではないと知っている。
死刑を宣告され、罪を重ね、
『全て』に自分を勘定してなくて、
『何か』にならず、『部品』を自称しても
ただ一点を見つめ続けてきた彼の眼が、
不撓の魂の進んだ道のりが、
『本心』であることを優に裏付ける。
そして虎杖はこう続けた。
『そうだ 宿儺
俺は オマエを殺せる
伏黒を解放しろ
もう一度俺の中に戻るなら殺さないでやる』
諦めることは確かに必要なのだろう。
身の丈を知り、自分に出来ることをする。
それが『生きる』ということだから。
でも、人間は道具ではない。
だから『身の丈』は生まれじゃなく、
『生きる』ことで変わる。
何が言いたいのか?まぁつまり、
「呪術廻戦は『諦め』の物語である。
しかし、それは後ろ向きとは限らない」
これ以上のことは、こんな所じゃなく、
呪術廻戦をもう一度読んで、見つけてくれ。
その手助けになったのなら、私は嬉しい。
最後に、
恵に『オマエがいないと寂しいよ』
そう言ってくれてありがとう。
悠仁がいたから楽しかった!