amedotのブログ

呪術廻戦の考察を主に書きます

【呪術廻戦】宿儺は「正しい死」を夢見て、虎杖悠仁を嫌悪する

何のために人は生きて、死ぬのか。
 
我々一般人にそんなことは分からない。
分かったとしても、胸を張って言えない。
 
しかし、例えば大谷翔平藤井聡太
彼らほど”成った”人なら分かるのだろう。
自信に満ち自由に、胸を張り言えるはずだ。
『死にたくない』、ではなく
『生きたい』と思う、その訳を。
 
だとすれば、あるはずだ。
災害と等しい「宿儺」
彼にだって、幾年廻るほどの『理由』が。

ネタバレ範囲は0巻~22巻、公式ファンブックです。
 
 
 
 
【目次】
 

【理由】

呪術廻戦では「理由」が重視される。
 

例えば夏油傑
彼は「弱者救済」に生きた。

烏鷺や、石流は、
「悔恨」をはらすために蘇った。

釘崎野薔薇は、
「自分らしさ」のために生きた。

そして主人公、虎杖悠仁
彼は「正しい死」のために生きる。
 
理由を持たず戦う人を探す方が
この作品においては難しい。
 
それでもしいて挙げるとするなら、
理由を持たないように見えるのは
「宿儺」と「学生時代の五条」。
 
 

【学生時代の五条】

以前も書いたが、学生時代の五条は敵となった夏油を打ち倒すことはできなかった。
なぜだろうか

呪術廻戦9巻/芥見下々
なぜ追わなかった。なぜ殺せなかった。
なのにどうして0巻で躊躇いなく殺せたのか。
”何”が0巻と過去遍で違うのか。
 
それは、「意味」だ。
 
 

【意味】

夏油と五条が最後に対話した日。
親を殺し、一般人を殺した呪詛師に、言った。

呪術廻戦9巻/芥見下々
「説明しろ」と。
そして、夏油の返答に対し、

呪術廻戦9巻/芥見下々
「意味ない殺し」
「無理に決まってんだろ」
こうも言った。
 
 
五条は一度だって、現代日本的な感覚「人殺しはいけません」で話してはいない。彼は、夏油がなぜそれを行う必要があったのかを聞き、納得がしたかった。夏油ならそれを持っているはずだと考えた。

呪術廻戦公式ファンブック/芥見下々
納得をし、どうしようとしたのだろう?
納得できたら、どうしていたのだろう?
 
おそらく

呪術廻戦9巻/芥見下々
天内を逃がすため、
天元と敵対する覚悟をした時のように。

呪術廻戦9巻/芥見下々
自覚無き悪意の信者を殺そうとした時のように。
 
夏油の志に「意味」があれば、
五条が「納得」できれば、
行動に「理由」があれば、
”殺し”すらも肯定したのだろう。
 
五条は夏油を『追いかけた』のだろう。
奈々子や美々子のように。
 
逆に、
夏油を殺すことに「意味」を感じれば、
夏油を『追いかけて』殺したのだろう。
 
理由も、意味も、何も持たない。
ただの「力」だから。
「唯我独尊」だから。
学生時代、五条は親友を追えなかった。
「親友(夏油)」という”理由”を超えるものを、
五条はどこにも持ち合わせていなかった。
そして、「五条悟だから最強なのか?」
という夏油の言葉で、「意味」を得た。
それが今の五条悟。
だから、0巻では夏油を殺せた。
生徒たちを守るため。「夢」のため。
 
そしてただの「力」のまま生きて
ただの「力」のまま死んだのが”呪い”
両面宿儺なのだろう。
 
 

【災害と不幸】

呪術廻戦公式ファンブック/芥見下々
宿儺は元人間でありながら、呪いの王
その力は、己の快、不快にのみ注がれる。
正に唯我独尊。

呪術廻戦14巻/芥見下々
彼は、漏瑚に言ったようにただひたすら、自らの欲望に忠実に暴れたのだろう。

呪術廻戦21巻/芥見下々
烏鷺が言う通り利己的だったのだろう。

呪術廻戦21巻/芥見下々
「宿儺」は理由のないただの”力”
まるで「災害」
まるで「不幸」
災害や不幸に意味はない。理由はない。
ただただ無意味で、純粋に、強大な力。
 
 

【呪いは”自由”か】

呪術廻戦11巻/芥見下々
「偽りなく、欲求の赴くままに行動する」
それが「呪い」。 それが真人。
ならば”呪い”の王 宿儺も当然そのはず。

呪術廻戦15巻/芥見下々
だから渋谷での心(生得領域)への侵入に、
宿儺は不快感を示さなかった。
真人が自由だったから。宿儺のように。
 
欲求のまま、思うがまま、我が儘に
喰らい、犯し、破壊する。
嗚呼、呪いとはなんと自由なのだろうか
 
 

【呪いは”不自由”か】

呪術廻戦13巻/芥見下々
呪いの魂は廻る

呪術廻戦11巻/芥見下々
五条ほどの術師ですら真人の魂を破壊することは出来ていないように、魂を破壊することは普通はできないのだろう。魂が呪われている呪霊は、魂ある限り現世に縛られ続けるのだろう。
 
なら”呪い”の王。宿儺の魂も廻るはず。
最強の術師である彼は、呪術以外で死ぬことはまずない。術者が呪術以外で死ねば呪霊と化し、廻る。
そして呪物の受肉「黄泉返り」
 
つまり”呪い”は輪廻する。
仏教における輪廻転生とは、悪しきこと
輪廻転生を断ち切ることこそが善いこと
 
では、自由に死する「人間」
死すら自由にならない「呪い」
果たして本当に「自由」なのはどちらだろうか。
 
道を朱に染め、他者を喰う。
悪しき唯我独尊。否、善悪の意味も無く。
無意味な災害のように久遠を生きる宿儺
 
彼が求めるのは、
 
道狭まり朱に塗れ、歩くことすらままならず
息もできないような不自由な暗闇の荒野。
そこを歩き続ける意味すら分からない。
意味なんてはじめから無いのかもしれない
それでも。そうだったとしても、
”他人のための自分”に生きる『虎杖悠仁
 
案外、同じ 「正しい死」
しかし、皆に囲まれる、後悔のない死。
「死」に向かって生きる虎杖とは違う。
 
戦い、奪い、殺して、喰らう。
泥を啜ってでも、唯独りでも、限界まで。
精一杯生き、「生き様を後悔しない」死
 
三途の川に、付き添いは居ない。
いつか人は、靴を並べて対岸へと渡る。
だから人は、次へ次へと天を廻らせる。

人間50年、久遠の呪い比ぶれば夢幻の如く。
一度生を享け、滅せぬものは実相か。
これを円頓止観と思ひ定めらんは蠢愚なり。
 
「死ぬときは独り」 「暗闇の先に何もない」
これは、渡る前に捨てる理由には能わない。
 
何を捥ぎ取られても、他者の遺志、
「遺言」を背負い進む、彼の眼と足跡は、
捨てた宿儺の多眼に、黒き机上の閃きと映る。